カプセル建築の系譜
カプセル・イン大阪 インタビュー
カプセル・イン大阪 インタビュー
ニュージャパン観光株式会社 本多眞一氏に聞く
聞き手 石間克弥(工学院大学鈴木研究室)
本多眞一氏( ニュージャパン観光株式会社 スパ&カプセル部門部門長
ニュージャパン梅田店/カプセル・イン大阪店長)
530-0027 大阪府大阪市北区堂山町9-5
――本多様の入社の経緯をお聞かせください。
当時のニュージャパンは新規性のある都市型サウナで、勢いもよくてたくさん宣伝していました。1988年頃の競馬中継の後のCMで、「初風呂はニュージャパン!」といって俳優の夏八木勲さんがサウナ上がりに生ビールを飲んだり、考古学者の吉村作治先生が出演したりして、大阪の中では知名度が高かったのです。私は朝から昼の間に清掃のアルバイトに来ていました。新人ながら他の8人の清掃スタッフをまとめあげ、同時にマネージャーの外回りに同行し、次第に営業を任されるようになり、正社員になりました。社員は50人ぐらい、お客様も数えられないくらいいたすごい時代でした。今はだいぶ街が変わってしまい、この堂山町の辺りには風俗店の案内場やカラオケ喫茶とかラブホテルがたくさんあります。
当時の街は活気がありました。1949年創業のニュージャパンは難波に本店があり、建物(ニュージャパンスパプラザ)の中にはサウナが3店舗入っていました。1964年東京オリンピックで選手村にサウナが設置され、先代の社長の中野幸雄が「大阪でぜひサウナを健康産業としてやりたい」と思ったのがはじまりです。キャバレーも展開しており、ホステスさんがたくさんいました。1950年代は近くに北乃大和屋さんという高級料亭があり、食事した人が新地に行く前に後輩を誘ってサウナやお風呂で身体を綺麗にして、夜の街に出ていくようなパターンでした。お客様も深夜まで熱心に仕事していた時代です。ストライキがあると、サウナの通路の絨毯にも所狭しと横になっていたお客様に、なんとかベッドで寝られるようにしようと考えたのが、ホテルを開いたきっかけです。
――カプセルホテルはどのように出来ましたか。
現在の会長の中野憲一の話ですが、先代の中野幸雄が発案し、大阪万博で見た黒川紀章さんのカプセル住宅がおもしろかったから直接問い合わせたそうです。「深夜に廊下でいっぱい寝ているような人たちをなんとかできないか」と尋ねると、「普通のホテルなら一人1室ずつ100人ちょっとしか宿泊は無理だけど、2段式のカプセルにすれば450人宿泊できるぞ」と言われたそうです。黒川さんの当時のパートナーは女優の若尾文子さんです。建築の先生が女優といるだけでもすごいのですが、女優さんも大御所なのでやっぱり別格でした。弊社にいた土肥が、「それは本多君な、向こう行ったらな緊張するわ、テレビ出てて大女優や、それで工事が間に合えへんとか業者が渋るんやとか言って、その間に入ってくれたのがその若尾文子さんで、『急いであげてちょうだい』と優しく言うたら業者は文句も言わずすぐ作業するんや」と言っていました。
カプセル・イン大阪広告「眠りのファッション プライベート・スペース」
黒川さんは自分を好きやったんじゃないかなと思いますね。カプセルホテルの新聞広告に自分の写真をでかでかと載せるのは、自信がなかったらできひんやろってね。映画の「スタートレック」や「2001年宇宙の旅」が流行っていて、宿泊費の2100円 と「2100年までカプセルが保つ」のをかけたらしいです。宇宙船をイメージされていたようですね。宇宙船に男が入り、枕元のスイッチを入れれば空調やテレビやアラームが稼働する。スリープカプセルは夢のホテルとか、眠りを科学する未来のホテルとか、宇宙時代の睡眠とか21世紀を想像させました。ホテルの開業日も2月1日 で、電話番号の下4桁は2100です。スタンダードのスリープカプセル450個を3、4、5階に設置しました。特許はオリジナルを製作したコトブキシーティングさんが取得しています。特許権は元々ニュージャパンにもあったようですが、当時の会長は「そんなもんな取らんでいいねん、どこでも作ってもらったらいいんや、流行ったらいいんや」と言ってね。後で「とっておけば良かった」とも聞いています。
――現在の状況について教えて下さい。
2019年5月15日〜7月20日に3階の半分と4階を改装し、内装工事の後にコトブキシーティングの新しいカプセルを搬入しました。大型のカプセルも導入したので今は370個になりました。私たちは古いカプセルはいらないので、解体で引き取って潰してもらったらと思っていたのですが、再利用できると聞いて驚きました。新聞社や消防署や警察署の仮眠室で使っているみたいです。FRP製のカプセルが耐久性や衝撃に強いというのは知っていました。阪神淡路大震災でビルが倒壊して現地のサウナは被害を受けましたが、こちらのカプセルはまったく損傷しませんでした。
関西国際空港も出来て、つい最近までインバウンドのお客様が多かったですね。4~5年前までは満室でした。ヨーロッパからの方はカプセルが面白いようで写真をかなり撮られていました。外国人の方は背が高いじゃないですか。古いタイプのカプセルに入るとボコっと20cmくらい足がはみ出ているんですよ。それでも「ベリーナイス」と喜んで、楽しんでいたみたいです。今は海外の集客は止まっていますが、常連様がいらっしゃいます。1年365日ずっと、10年、15年の方とか、2~3ヶ月の方もいらっしゃいますよ。「ここが家ちゃう」とね。年金暮らしの方、仕事関係の方、このあたりの飲み屋さんのオーナーで夜中に来て寝て早朝出ていかれる方がいますね。コロナ禍で2020年の4月12日から7月1日まで初めて休業したのは気の毒で申し訳なかったです。
スマートフォンやパソコンを充電するためにカプセル内にコンセントをこしらえ、ネット環境を少しずつ改善してきました。昔は中でドライヤーを使われると火花が心配でコンセントは付けませんでした。しかし時代が変わって必要だと思い、10年ほど前に、もう聞かなくなったラジオを取り外してコンセントを付けました。テレワークやリモートの時代で、中で仕事ができるカプセルも考えていきたいですね。
私たちはスリープカプセルが評価される時代がくるとはまったく思っていませんでした。2014年に大阪市が選定する「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」となり、残してよかったと思います。倉方俊輔先生(大阪市立大学准教授)はここで毎年11月にイベントを行っています。毎回応募が多くていつも抽選です。いつもは男性のお客様しか宿泊できないのですが、女子会や親子連れの会を実施し、建築学科の生徒さんも全国から来るようになりました。よければ来年参加してください。また、2月1日 には30名様限定で創業当時の価格2100円で宿泊を受け付けています。
生きた建築ミュージアムフェスティバル2015「2回目の女子会inスリープカプセル」で講演する倉方俊輔先生
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カプセル建築の歴史
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