カプセル建築の系譜

座談会「黒川紀章のカプセル建築」

座談会(1)ホモ・モーベンスからカプセルへ

左から鈴木敏彦、茂木愛子、阿部暢夫、黒川未来夫
収録:2020年10月23日、会場:ATELIER OPA、撮影:中島智章

鈴木:「黒川紀章のカプセル建築」をテーマに、黒川紀章建築都市設計事務所でカプセル建築の責任者であった阿部暢夫さん、カプセルの設計を担当した茂木愛子さん、そして黒川紀章の長男の黒川未来夫さんにお集まりいただきました。司会進行は同じく黒川事務所に在籍した私が務めさせて頂きます。

阿部:私は早稲田大学の第二理工学部3年生の時に黒川事務所にアルバイトに行きました。当時あった第二理工学部は言わば夜間部で、第一理工学部に入れなかった出来の悪いのが入るところでしたが(笑)、面白いという評判で、黒川さんにアルバイトに呼ばれていました。まず斉藤義さんという1962年の「箱型量産アパート基本計画」を担当した有能な人、次の学年で一宮賢二さん、そして三人目が同級生の淵辺懿さんでした。私は淵辺さんと同じ戸山ハイツに住んで仲が良かったので、誘われてアルバイトに行き、いろんな図面を描きました。淵辺さんは大学を卒業して社員になりましたが、私は大学院に進学してアルバイトを続けました。大学院の卒業後は独立して設計事務所を開きました。そんな時、建築家の白井晟一(1905–1983)と黒川紀章が帝国ホテルの表側に建つ新館の設計コンペに参加することになりました。私は黒川さんに呼ばれて「これを設計しろ」と言われたわけです。私の設計事務所のアルバイトだった柴田忠雄さんと茂木さんの3人で製図台を持ち込みで参加しました。ホテルなんて泊まったこともありませんでしたが、なんとか設計しました。結局だめでしたが、そもそも白井と黒川の組み合わせには無理がありました。その後柴田さんと茂木さんは黒川事務所の社員になりました。

茂木:黒川事務所で立面図と断面図を描きました。

阿部:私は自分の事務所にもどりましたが、仕事がないわけです。黒川から「東名高速の御殿場足柄サービスエリアの図面を描いてくれ」という依頼があり、アルバイトに戻りました。ある時、当時銀行から来ていた伊藤副社長に「ハンコを貸してくれ」と言われ、何かの領収書に押すのかと思っていたら、「君は今日から取締役になったから」と告げられました。「まあ仕事があるならいいか」と入社しました。

黒川:アルバイトからいきなり取締役ですか。

空中テーマ館住宅カプセル (1970)

茂木:1970年に大阪万博(EXPO '70)がありました。太陽の塔の周りに大屋根があり、その中に「空中テーマ館住宅カプセル」を設計する計画がありました。阿部さんは「住宅カプセル」の担当でした。私はアルバイトで大屋根の模型をつくりました。その後1971年の「佐倉市庁舎」の議場棟を担当して現場にも行くようになり、黒川紀章建築都市設計事務所の社員になりました。現場では増築棟の図面を担当しました。

鈴木:お二人は 大阪万博の空中テーマ館の「住宅カプセル」の設計にはじめから関わっていたのですね。

大阪万博の空中テーマ館「住宅カプセル」

阿部: 大阪万博の「住宅カプセル」は個人用のカプセルが3つ付いているから、黒川さんのいう「ホモ・モーベンス」の住まい方に一番近い。個人が自分のカプセルを持っている。家族が寝泊まりする「ホモ・モーベンス」の最小単位としての建築です。同様に「中銀カプセルタワービル」(以下「中銀カプセルタワー」、または「中銀」)」も、所有者が自分のカプセルを外してどこかに持っていくというコンセプトでしたが、カプセルとしては「住宅カプセル」のほうが出来がいいと私は思っています。万博の「住宅カプセル」の中央にはテレビをたくさん並べて来場者が見て回る場所にしましたが、本来は居間になる場所ですね。ここに、日本ではじめてファクシミリをいれました。松下電工(現 パナソニック)に掛け合いに行って、社長や副社長に貸してくださいと頼みました。

黒川:私は大阪万博の頃はまだ5歳でした。二歳上に姉がいて、長男として1965年に生まれました。万博には連れていってはもらえませんでした。(笑)折に触れて時々お二人にお会いすることはありましたが、その頃は阿部さんも茂木さんも退社されていて、こうしてお話を聞くのは初めてです。

鈴木:1970年に美術出版社から出版された書籍『黒川紀章の作品』の付録のソノシートで、黒川は宇宙人のような声で「カプセル宣言」を読み上げています。所内にはどのくらい影響を与えましたか。

阿部:1969年の「カプセル宣言」は黒川事務所にとっては当たり前のことが書いてあるだけでした。それとは別に、黒川は「ホモ・モーベンス」をかなり真剣に考えていた。メタボリズムの例として、「中銀カプセルタワー」で「ホモ・モーベンス」とカプセルを直結させて実現したことは極めて重要で、他の建築家にはとても真似のできないことでした。

鈴木: 当時、「ホモ・モーベンス」のための建築を所内でどのように考えていましたか。

阿部: 工業化したワンルームマンションをどう作るのか、と考えていました。「ホモ・モーベンス」を真剣に考えれば、サイボーグアーキテクチャーという装置として、もっとバリエーションがあっても良かったと私は思っています。だから「カプセルハウスK」には茶室やキッチンがあるじゃないですか。中銀カプセルのカタログにはベッドのないスタンダートや、デラックスやスーパーデラックスのカプセルもありますが基本はワンルームマンションです。
中銀カプセルタワービルのカタログ

中銀カプセルタワービル (1972)

鈴木:「中銀カプセルマンシオン」のカタログは車のカタログを意識していますね。

黒川:カプセルのイラストは、『カーグラフィック』という自動車専門誌で車の中身の図を描いているイラストレーターにお願いしたと聞いています。
自動車のイラストレーターが描いたカタログ

阿部:『カーグラフィック』に電話して、イラストレーターを紹介してもらい、会社に来て描いてもらいました。車は点描で曲線を描くから、直線でできている建物の表現は最も難しかったらしい。

茂木:「中銀カプセルタワー」では担当が分かれていて、下沢康二さんがコア部分を、カプセルを私が担当しました。プロジェクトは阿部さんを筆頭に、上田憲二郎さんが全体を統括しながら低層階の部分も担当していました。模造紙を貼り合わせて、カプセルの原寸大の平面を描き、黒川先生と打合せを行なったことを思い出しました。

阿部:カプセルの製作はゼネコンでは無理だと思いました。コンテナの会社や造船所などいろいろと見学に行って、電車の車両を作る会社に頼みたいと思いましたが、そういうところは製造を受けない。日立製作所に聞くと、「作ったとしても検査が通らない。100作っても3つか4つははねられるから、商売にならない」という。それでいろいろ調べたら、国産旅客機YS-11の内装を手掛けた会社が三社ありました。高島屋工作所は黒川事務所に来て「うちはお金持ち相手で、おまえみたいな貧乏人とは付き合えない」という顔をしていた。三葉工芸はちょっと面倒くさい感じ。大丸装工に見積もりを取ったら10人ぐらいで断りに来たけれど、それを説得し、おだてて受けさせた。以降も全てのカプセルは大丸装工部で造りました。

鈴木:カプセルの製作は普通の建築やインテリアの施工会社では無理で、飛行機や船などの内装ができる大丸装工だから実現できたということですね。

阿部:建築やインテリアの会社は内装の重さを考えないからね。

茂木:重さといえば当初、若い担当者の構造設計ではカプセルがとても重くて困っていたら、所長の構造家の松井源吾(1920–1996)先生が打ち合わせに来て、あっという間に構造体の重さが半分になりました。

阿部:そうそう、度胸がある人でしたね。松井さんは不思議でね、ポケットに小学生が使うような小さい計算尺がはいっていてね、実際は社員が計算するのだろうけど、結論はチャカチャカ早い。早稲田大学の授業も計算尺でやっていた。ほとんどの作品を松井さんにお願いしていました。

鈴木:「佐倉市庁舎」の構造も松井先生ですね。松井先生によって初めてカプセルの構造の軽量化が成し遂げられたということですね。

茂木:「カプセルハウスK」はコア部分などの建築の構造は大成建設で、カプセル部分は松井先生でした。

阿部:基本的には、モノコックに近い構造にします。いわゆる鉄骨のラーメン構造ではなくて、細くして小骨を増やすわけだよね。本来モノコックは鉄板を折り曲げてやるのだけどそれはできないからね。

黒川:2006年に「中銀カプセルタワー」の建て替え決議の時に、黒川紀章が新しいカプセルの図面を起こしています。当時は法規的難易度が高かったようです。黒川が2007年10月に亡くなって、私は2008年から2016年まで黒川事務所の代表を務めました。2011年の震災後に耐震改修の考え方が広がりました。2012年あたりに小規模な改修案の依頼があり、カプセルの軽量化を社内で検討しました。モノコックで一枚を曲げていく案や、ジェラルミンのリベット留めで外側に構造体をつくる案を考えました。2006年の黒川案よりも軽量にして、さらに2本ずつボルトが入る穴に4本ずつ固定すれば、より強度が増すと考えました。70年代にはモノコックは現実的ではなかったけれど、今なら材料や素材で可能なことも多いのではではないでしょうか。私は2019年の春より中銀の一部屋をお借りして、カプセル建築の中でメタボリズムの本を読むというコンセプトのライブラリーを作りました。本当にこのカプセルを新陳代謝させて交換していくのであれば、新しい技術で本来の考え方に近づけるのではないかと考えています。

鈴木: 中銀カプセルを多数所有する「中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト」代表の前田達之さんが「そのうち一つぐらい交換してみたい」と言っていますね。

黒川: 権利とお金の問題さえ解決すれば出来ると思います。下からカプセルを付けていったのですから本来は上から外すのですが、2012年に大成建設と話したかぎりでは、一番下のカプセルを外すのは可能のようです。

茂木:法規の関係はどうなっていますか。

阿部:用途と構造が変わらなければ、改装に確認申請はいらない気がするけどね。

黒川: 法規的にも改装ではなく、耐震改修のカプセル交換となります。ですのできちんとコア自体から補強するという話です。これが建て替えの範疇となると現在の法規では同じ建物は作れませんしカプセル交換も実現が難しいことになりそうです。コアの強度は1970年代の建築としては良くても、A 棟と B 棟を繋ぐ通路で穴が開いていて、補強する必要があります。前田さんもカプセル交換を模索されていますが、中銀さんや個人のカプセルの所有者の多くが解体し更地を希望しているようです。

カプセル建築の系譜 座談会(2)カプセルハウスKの維持保存 に続きます。

Capsule Architecture Projectinfo@capsule-architecture.com

Powered by ATELIER OPA