カプセル建築の系譜
はじめに
黒川紀章(1934-2007)は、日本を代表する建築家であり思想家です。弱冠26才で建築を新陳代謝させる理論運動「メタボリズム」を展開し、機械の時代から
生命の時代への変革を一貫して主張しました。世界各地で完成した数々の建築作品は高い評価を得ています。なかでもカプセル建築に焦点をしぼり、その思想の源を追いました。
文:鈴木敏彦、作図:石間克弥、
写真:山田新治郎、編集:杉原有紀
初出誌:工学院大学建築系同窓会誌『NICHE Vol. 44』「黒川紀章のカプセル建築」pp.24-55、Opa Press、2020年3月20日)より引用
黒川紀章は1969年に「カプセル宣言」を発表し、1970年の大阪万博でそのコンセプトモデルである「空中テーマ館住宅カプセル」を展示し、1972年にホモモーベンスのための集合住宅「中銀カプセルタワービル」を社会実装した。勢いそのままに翌1973年、万博で発表した住宅カプセルのコンセプトを、自らの別荘「カプセルハウスK」として実証した。しかし、居住単位としてのカプセル建築はそれ以降造られることはなく、その系譜は途切れたと思われた。しかし1979年、世界初のカプセルホテル「カプセル・イン大阪」が既存のサウナ・スパの建物の上階に誕生した。カプセルベッドの原型は既に大阪万博の住宅カプセルの個室ユニット内の箱状のベッドルームに見られる。つまり、カプセルは建築ではなくインテリアとして息を吹き返したのだ。
カプセルホテルはセンセーショナルに社会に受け入れられた。カプセルベッドはコトブキシーティング株式会社が「スリープカプセル」として製品化し販売を続けた。「カプセル宣言」から50年、カプセルホテルは若者や外国人観光客にも浸透し、警察署や消防署の仮眠室や、日本のみならず国際航路のフェリーや国際空港での客室として、生産総数6万床の「スリープカプセル」が用いられている。一方、「中銀カプセルタワービル」は25年ごとどころか一度もカプセルを交換することもなく解体の時期を迎えている。カプセル建築は終わったと考える人がいるかもしれない。しかし、インテリアの系譜で「スリープカプセル」が今も進化の過程にある限り、カプセル建築の系譜もまたどこかで突然変異して復活する日が訪れると確信している。
ここでは、黒川紀章のカプセル建築を再考する。関係者の証言を集め、時系列を明らかにして各プロジェクトを紹介する。これまで余りメディアに出ていない1973年の「カプセルハウスK」を2020年に撮りおろして全貌を明らかにした。黒川紀章が保有していたこの別荘こそ、カプセル建築を再考するきっかけとなるだろう。2021年、コトブキシーティングが工学院大学鈴木研究室と共同で開発した「ダンボール・スリープカプセル」はカプセルを用いてコロナ禍の避難環境の新しい解決策を示したものだ。黒川紀章は「カプセル・イン大阪」の発表時に2100年までを見据えていた。カプセル建築を私たちが未来にどのように継承していくかを考えたい。
カプセル建築の系譜
⟶ 座談会(1)ホモモーベンスからカプセルへ
カプセル建築の系譜
⟶ 1969 カプセル宣言
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